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主要文化財

天然記念物

錦江上流ヨルムチ

  • 分類 天然記念物
  • 指定番号 第238号
  • 棲息地 忠北 沃川郡 伊院面 七方里 金剛上流
  • 指定日 1972年5月1日

水深50~70cmで、川底が砂利になっていて、きれいな水が流れる所にのみ卵を産む。この時、川底に穴を掘った後、そこに卵を産み、そこの砂利を高く積み上げる。これを産卵塔という。漢江、臨津江、金江の上流に棲息している珍しい種で、1906年に新種として発表された。1972年には、チェギチョル教授によって、金江に棲むヤガタニコイの棲息実態が明らかにされた。

斥和碑

玉泉ヨンアムサ組三層石塔

  • 分類 忠清北道 記念物
  • 指定番号 第6号
  • 棲息地 忠北 沃川郡 沃川邑 三養里 山4-4
  • 数量 1基
  • 指定日 1976年 12月 21日

この石碑は、1866年(高宗3年)に起こった丙寅洋擾、続いて、1871年(高宗8年)に起こった辛未洋擾の後、興宣大院君が、1871年4月に西欧列強の前に無力だったことを受けて、通商交渉を断ち、西洋人たちを排斥し、警戒するために、鎖国政策の一環として、ソウルや全国の交通要衝地に立てた石碑の中の一つだ。その後、我が国が、様々な国と通商するようになったことによって、1882年、全国の斥和碑はすべて撤去された。この石碑も、山すそに埋まっていたものを発見し、ここに移されたと伝えられている。

主な文化財

龍岩寺磨崖仏

  • 分類 忠清北道 有形文化財
  • 指定番号 第17号
  • 棲息地 忠北 沃川郡 沃川邑 三青里 山 51-1
  • 数量 1基
  • 指定日 1976年 12月 21日

この磨崖仏は、龍岩寺の裏手にある蔵霊山の岩壁に彫りにされた、全長297㎝の如来立像で、派手な蓮花座台の上に 座り、両腕を少し開き、まっすぐ立っている。頭は、何の飾りもない素髪のように見え、両眼、鼻、口など顔の様子は 非常に端正で、慈悲に溢れている。顔は長く、肩まで垂れた両耳からは、威厳と仁慈があふれているのに、法衣は右肩偏袒(右肩の襟を解くこと)だ。新羅の終わり、太子であるマイ太子が作ったという伝説ともかなう、意義深い磨崖仏の 一つだ。

支石墓

  • 分類 忠清北道 有形文化財
  • 指定番号 第10号
  • 棲息地 忠北 沃川郡 東二面 石炭里 685-2
  • 数量 1基
  • 指定日 1975年 8月 20日

この支石墓は、先史時代であった青銅器時代に暮した人の墓で、立石といったりもする。蓋石を支えている支石が、地面の上に立てられており、その内部は死体を入れる棺桶の役割をしている。これと一緒に作られたものを、北方式、またはテーブル式支石墓という。元々は、支石で周りを支えていたが、長い年月をかけて、無くなっていった。現在は、石研台、打製石器、カラック輪などの副葬品と守り石が残されている。1980年2月28日、デチョンダムの水沒地域にあったため、現在の場所に移転した。

二知堂 忠清北道

  • 分類 忠清北道 有形文化財
  • 指定番号 第17号
  • 棲息地 忠北 沃川郡 沃川邑 三青里 山 51-1
  • 数量 1基
  • 指定日 1976年 12月 21日

この磨崖仏は、龍岩寺の裏手にある蔵霊山の岩壁に彫りにされた、全長297㎝の如来立像で、派手な蓮花座台の上に 座り、両腕を少し開き、まっすぐ立っている。頭は、何の飾りもない素髪のように見え、両眼、鼻、口など顔の様子は 非常に端正で、慈悲に溢れている。顔は長く、肩まで垂れた両耳からは、威厳と仁慈があふれているのに、法衣は右肩偏袒(右肩の襟を解くこと)だ。新羅の終わり、太子であるマイ太子が作ったという伝説ともかなう、意義深い磨崖仏の 一つだ。

沃川郷校

  • 分類 忠清北道 有形文化財
  • 指定番号 第97号
  • 棲息地 忠北 沃川郡 沃川邑 校洞里 320番地
  • 数量 4棟
  • 指定日 1981年 12月 26日

沃川郷校は、太祖7年 (1398)に、創建され、大成殿は、世宗22年(1440)に建立された。先祖の時、壬辰の乱の戦火で 消失したが、後に再建された。 沃川郷校の建物の配置は、成均館の縮小版であるといわれているように、一番前には、明倫堂があり、西側に書斎、東側に庫直社があって、内山門をくぐって入って行けば、正面に大成殿、両側には同庶務がある。 この郷校は、孔子を筆頭に、中国の先賢たちやソルチョン、ジョホンなど我が国の18聖賢を共に祀っている。

青山郷校

  • 分類 忠清北道 有形文化財
  • 指定番号 第98号
  • 棲息地 忠北 沃川郡 青山面 ギョピョングリ 267番地
  • 数量 4棟
  • 指定日 1981年 12月 26日

青山郷校は、太祖7年(1398)につくられたが、1592年、壬辰の乱の戦火にあった。その後、先祖35年(1602)、ペグン洞に再建したものを、曉鐘5年(1654)、今のギョピョン里へ移建した。講堂である明倫堂と、儒生たちが住む書斎、文廟である大成殿がある。この郷校は、沃川郷校と違い、東・西廡がなく、孔子を筆頭として、中国の先賢たちや、朝憲(ジョホン), 宋時烈(ソンシヨル)など、我が国の18聖賢たちを一緒に祀ってある。 毎年、春と秋には、地方楡林たちが 享祀している。

斗岩里3層石塔

  • 分類 忠清北道 有形文化財
  • 指定番号 第120号
  • 棲息地 忠北 沃川郡 伊院面 二元里 582-3番地
  • 数量 1基
  • 指定日 1982年 12月 17日

2層の基壇の上に、3層の塔身があり、その上には、相輪部をあしらった一般的な石塔だ。下層の基壇には、各面に 3句ずつの眼象が彫られており、甲石は、4枚の石板から成っている。3層基壇の各面には、両隅柱と1?柱が模刻されている。塔身部は、塔身と屋蓋石が、それぞれ1つの石でつくられている。1層塔身には、正面に門扉と錠前が彫刻されていて、目を引かれる。基壇部と塔身部の仕組みから見て、作られたのは、高麗 前期であると推定されている。。

青石橋

  • 分類 忠清北道 有形文化財
  • 指定番号 第121号
  • 棲息地 忠北 沃川郡 郡北面 ジュンヤンリ 1068-3
  • 数量 1基
  • 指定日 1982年 12月 17日

この橋は、660年の新羅、文武王の時に作られたものとして伝わっている。もともとは、現在、京釜線鉄道のある場所にあったが、鉄道工事に伴って、一度は、ジュンヤク村の入口へ移されたが、その後、水害でよって、2001年4月、現在の場所に移した。この石橋は、高さ 175cm、幅 220cm、長さ983cmである。両側の川辺に石を積み、川底には、 長台石を置いてから、角石柱を立てて、その上に大きな石板を載せてつくられた。

立石

  • 分類 忠清北道 有形文化財
  • 指定番号 第156号
  • 棲息地 忠北 沃川郡 東二面 石炭里 944
  • 数量 1基
  • 指定日 1987年 3月 31日

立石は、村の入口に立てて、災いを防いでくれる守門神、または、村の豊穣・平安を維持してくれる守護神の神体で あると信じられている。大きな花崗岩をまっすぐに立てた、棒状の自然石で、青銅器時代の大石文化財の 一つである。立石の中間部分には、彫刻方式で、直径が90cmにもなる、丸い円の幾何学模様が描かれている。これは、妊婦を表したものであると考えられ、多産神、出産神的な象徴の信仰様相を伺い知ることができる。1977年12月2日 、立石発掘調査の時、調査された。

沃州司馬所

  • 分類 忠清北道 有形文化財
  • 指定番号 第157号
  • 棲息地 忠北 沃川郡 沃川邑 上渓里 57-2番地
  • 数量 1基
  • 指定日 1987年 3月 31日

司馬所は、朝鮮時代、地方村ごとに司馬試験の合格者たちが集まって、儒学を指導し、政治を論じた所で、穀物出納 などの金融業や、義倉の役割もした。正面5間、側面2間の一重軒、三角屋根の建物で、正面4間と縁側があり、他には、右側に床、左側にオンドル部屋、台所がある。右菴宋時烈(ソンシヨル)によって書かれた義倉ズングスギを見てみると、この建物は本来、貧しい民のために穀食を備蓄・保存して置いた、義倉の建物であったものを取り離して、曉鐘5年(1654)に建てたと書かれてある。

景賢堂

  • 分類 忠清北道 有形文化財
  • 指定番号 第158号
  • 棲息地 忠北 沃川郡 伊院面 竜方里 53番地
  • 数量 1基
  • 指定日 1987年 3月 31日

この建物は、朝鮮時代にこの地方で初等教育を実施した、書堂の建物で、名前を竜門書堂から景賢堂と変えた。肅宗23年(1697)に書舎である景賢堂と、斉舎である竜門影堂を作ったが、斉舎は崩れてなくなった。景賢の建物は、正面3間、側面2間の 一重軒、三角屋根の角桁式家屋で 右側には床、左側にはオンドルを構えた、素朴でつつましい構造になっている。

沙西公(全湜)肖像画

  • 分類 忠清北道 有形文化財
  • 指定番号 第171号
  • 棲息地 忠北 沃川郡 東二面 金癌里 77番地
  • 数量 1基
  • 指定日 1992年 10月 23日

朝鮮 14代宣祖の時のムンシク、全湜の肖像画で、文官制服を着て、椅子に座り、左側を見遣る姿を、麻の紙に描き、絹で 裏打ちした、縦136cm、横92cmの掛け軸である。当初の絵は墨画だったが、後に加色し、顔と胸の部分を様々に補色した。ホンベは、蓮華の前にみみずくを刺繍した技法で、当時の雰囲気を見事に再現した。

重峰趙憲神道碑

  • 分類 忠清北道 有形文化財
  • 指定番号 第183号
  • 棲息地 忠北 沃川郡 安南面 陶農里 926-1番地
  • 数量 1基
  • 指定日 1996年 1月 5日

重峯趙憲(ジョホン)の墓から、東南方向へ100m行った所にある神道碑は、仁祖27年(1649)に建立された。左議政 金尚憲(キムサンホン)が、この文を作り、吏曹判書宋浚吉(ソンジュンギル)、右議政金尚容(キムサンヨン)がこれを書いた。この石碑は、高さ 175cm、幅100cm、厚さ32cmであり、碑文には、趙憲の波乱万丈の生涯が記録されている。また、最後の激戦地だった錦山での戦いに対しても、詳しく書かれている。

景栗堂

  • 分類 忠清北道 有形文化財
  • 指定番号 第192号
  • 棲息地 忠北 沃川郡 安南面 終尾里 523番地
  • 数量 1基
  • 指定日 1998年 6月 26日

朝鮮、英祖12年(1736) に、景栗全後会(ジョンフフェ)が、村の入口に寺小屋を建て、自分の号を取って、景栗堂と した。景栗全後会は、栗谷の学徳を崇慕して、「栗」という字を付けたとされている。景栗堂は、子孫たちの学問の研修と、人格修養の道場として活用した。また、竜宮全氏一族の団欒の場所でもあった。

龍庵寺木造阿弥陀如来座像

  • 分類 忠清北道 有形文化財
  • 指定番号 第193号
  • 棲息地 忠北 沃川郡 沃川邑 三青里 山 51-4
  • 数量 1点
  • 指定日 1998年 11月 20日

この小型の木造仏像は、曹渓宗の分寺である龍庵寺の大雄殿に奉安されているが、奉安されるまでの経緯は定かではない。1880年の胸開きの時に、「順治8 年辛卯年」に作られた陀羅尼経が発見されたことびより、仏像が、朝鮮、考宗2年(1651)に作られたことが明らかになった。陀羅尼経に書かれている内容から、慶尚道、聞慶の鳥井寺で作られた後、こちらへ移ってきたと考えられる

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